座談会——正確に言うと雑誌や書籍での「誌上座談会」は、よく目にするものですし、私たちにとって馴染みの深いものです。最近の記念誌でも、ほぼ「定番」メニューとなっています。
ところが、この「座談会」という表現形式は欧米にはないものだと最近知って驚きました。
著書『思考力の磨き方』のあとがきで日下公人氏はこのように言っています。
「文藝春秋を作った菊池寛は“座談会”の発明者で、それは日本では定着したが、世界にはいまだに広がらないことが想起される。なぜか、と考えると日本文化の伝統には“連歌”の会があるが、欧米には詩の朗読の独演会しかない。ブログやツイッターを人が集まって見せ合うと連歌の会になり、さらに発展すると座談会になると考えると、いまだに対談か討論かまたはインタビューしかない欧米は、これから始まる百鬼夜行、自由奔放、議論百出の末に「観念連合」で新理念を創出する時代に入れない恐れがある」
このような日本人と連歌と座談会についての指摘はほかにもあり、「風狂夜話」というブログには次のようにあります。
「なぜ日本人は「座談会」という形式を好むのか。座談会が中世以来の連歌・連句の伝統の延長線上にあるからである。たとえその会には連句のような詩的な応答が見られなくとも、そこでの会話が無意識のうちに連歌・連句の伝統的雰囲気をひそめていて、身近に感じられるからである。「座談会」では、出席者はそれぞれの発言者の意を忖度しつつ、相手の感情を傷つけぬように発言し、賛同し、異を唱えるにあたっても、相手に同調しつつ、それとなく自説を持ち出すというふうに「和を尊び」進行する。(中略)「座談会」の形式はこれらの伝統の継承なのである」
日下氏の言うように、誌上座談会というものは大正時代に自費で『文藝春秋』を創刊した菊池寛の発明で、1927年(昭和2年)の『文藝春秋』3月号誌上に初登場したものです。この時の出席者は菊池寛、徳富蘇峰、芥川龍之介、山本有三でした。
これ以降、「座談会」は雑誌に欠かせないほどの人気企画となっていったのですが、記念誌にはなかなか今のように登場してきませんでした。まだ録音機など全く普及していない当時、座談会原稿作成には速記者が必要だったので、記念誌の一企画として採用するには少しハードルが高かったのでしょう。ちなみに、日本における速記は1890年(明治23年)の第1回帝国議会の数年前から教育が盛んになり、1935年(昭和10年)には『日本速記50年』という本も出ているのですが、需要の多くは議会関係と新聞などの一部マスコミ関係だったようです。