記念誌・社史 よもやま話9 | 『座談会』の話(2) | 社史編纂・記念誌制作32年の牧歌舎

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記念誌・社史 よもやま話

9.「座談会」の話(2)

太平洋戦争前に「座談会」が記念誌の中の一企画として現れた例としては、早稲田大学創立50周年の記念誌『法科回顧録』に出てくる「回顧座談会」があります。

 早稲田大学といえば明治維新の元勲の一人、大隈重信が政府と対立して下野し、「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って1882年(明治15年)に開設した「東京専門学校」がその始まりであり、そこから50年経った1932年(昭和7年)に記念誌としてこの『法科回顧録』が制作されたのですが、その中の「Ⅰ.回顧座談会」はオプション的な企画ではなく、記念誌のメインの記事として「Ⅱ.回想談」「Ⅲ.法科の過去及び現在」よりも前に掲載されています。

 その内容はなかなか面白いもので、創立3年目に教授となった人は、次のようなことを言っています。

「その当時の政府は早稲田を非常に憎んで居りまして、あたかも大隈伯を反逆人の如くに思い、したがって大隈伯の創立に係る専門學校などは何だか反逆人の養成所であるかのやうに思つて居つたものでせうか、役人として早稲田へ出入りすることを甚だ忌み嫌つて居つた。それでありますから専門學校の法學部の諸先生が退かれますれば応援を自然帝大の方へ求めなければならぬのでありますけれども、帝大の先生逹もうっかり早稲田へ参りますと免職になるやうなおそれありますから誰も来る人がなかった。さすがの専門學校の幹部諸君も殆んど之れには弱られまして、誰か政府と關係のない法律を學んだ者を引張って來たいと思ひましても其人がなかつたのであります。其時に私は日々新聞の記者を致して居りまして、まだほんのひよつこ記者でありました。編地先生の下に指導されて新聞記者の見習をして居つた時代でありますが、高田君が私の所を訪問されまして、今度專門學校で折角法學部を置いたけれども三先生が行つてしまつた、詰り空明きになつてしまつた、何かして君一つ來て暫く助けて呉れないか。まア何ですな、空穴を埋める役になって呉れないかと言ふのです。勿論私は學者でもなし、そんな任ではなかつた。強ひて御断はりをしたのですけれども、どうも仕方がないから是非來て呉れろと言はれる。一體私は此學校の創立に關係ある高田君、市島君、坪内君などとは同窓で誠に仲の宜かつた間であります。所が政治上の立場が其時分違つて居つた。高田先生達は大隈系統となり改進黨の幹部でありました。私は日々新聞の記者であつた關係上、其當時は福地肚長が帝政黨といふものを組織しまして、之が純然たる政府黨でありました。でございますからして私も矢張り其中へ捲込まれて居つたのであります。改進黨と帝政黨とは全然政治上反封の立場に立つて居つたのですから、一寸こちらへ伺うのが變な工合であったのであります。併し其當時のことを思つて見ますと、政府筋では何だか意地悪く大隈伯の計画になつたる學校を苛めるやうな傾きがありまして誰も奮つて行く人がないといふは誠に氣の毒な訳であるし、叉學問とか藝術には國境はないものである、何も政治上の立場が反対であるからといつて其反対の場所へ行つて學術の講演をするといふことは何等差支へあるまい、斯様に私は思ひまして、高田先生に宜しうございます.それでは暫く其穴埋を致しませうといふことで、こちらへ参ることになつた」

 また他の出席者もこのようなことを言っています。

「或る先生が、あれは君、改進党の學校だよ、あんな所へ行つて教へるなんてとんでもない、だから止めにせよと云はれました、その先生は官吏でもなくまた当時の自由党でもない人ですから改進党を憎んでいた人でもなく、自由党を好いた人でもないのです。私はそれを押切つて專門學校へ來たのですが、其時には同年に卒業した岡松参太郎・春木一郎なども專門學校の先生になつた。私は何しろ改進党の主義と自由党の主義とどう違ふのやら、世間で誤解した様に大隈さんが藩閥政府を倒す爲めにこの學校をこしらへたのやら、そんなことはちっとも考へて居らなかつた、ただ自分の様な未熟者に此の學校で講義をさして下さるとは非常に有難いことだと思つて大喜びで講義をさせて貰ったに過ぎないのでした」

 学費について振り返る他の出席者からは、

「當時の私共の一ケ月の學資がどの位であつたかといふことを考へて見ると、私は七圓五十銭、之は寄宿代、月謝、自分の小遣も入れて此位の額で一ケ月支へることが出來たのであります。第一に寄宿舎の費用が一ケ月二圓三十鏡、月謝が一圓八十銭であつた。先づ七圓五十鏡あれば優に一ケ月を支へることが出來た。しかしながら之は苦學生の部である。普通は先づ九圓から十圓と云ふ學資の人が多かつた。之が中の上といふ所であった。而して私は最初は矢野文雄先生の所に厄介になつて居つた。其時先生は赤坂の表町に居られた。赤坂の表町から早稻田迄は殆んど一里以上もありませう。それを屈托なしに毎日々々学庭へ通つて居つた。今日の學生から見ると誠に想像も及ばないやうな境遇で、我々は苦學して來たのであります」

 との発言も出ています。このほか、学問上のこととか、政治問題とのからみで、学生による教授排斥運動が起きたり、国粋主義の壮士からの襲撃を受けるおそれから教授が身を隠したりとか、興味深い話題が満載で、最後は、

「大変長い時間に亘つて面白い又有益なお話を伺はせていたいただきましたことを感謝いたします。これを後の人に傳へて、五十周年のいい記念にしたいと、思います。どうも有難うございました」

との司会の言葉で締めくくられています。

 この年、国内では5・15事件が起こっています。また、「満州国」が日本軍部の主導で中国東北部に建国されましたが、国際連盟で承認されず、日本は連盟を脱退。孤立の中で日中戦争、太平洋戦争へと「非常時」の中を進むことになり、軍事一色で過去を振り返る余裕も失われたためか、記念誌の類は終戦後まで発行されていないようです。




(※周年記念誌の具体的な作り方については「記念誌・社史の制作手順」(準備〜その1〜その6)をご覧ください)

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