会社設立の経緯の発端として、まず明治維新前の「横浜開港後の概況」が語られています。それによりますと、
「開港の当初、ある人が山田郡大間々町の近くで出来た蚕糸の平糸を持って横浜の外国人居留地を訪れ、外国商人に見せたところ、外国商人はその優良品であることと低価格であることを褒めたたえて買い取ってくれた。以後取引量が日増しに増えていったが、当時の外国商人の一般的傾向は見た目の美しさと量の多さであって質の良否にはこだわらないようだった。というのは、日本人は外国の商品相場も為替相場も知らなかったので外国商人は儲け放題であって、たくさん仕入れればたくさん儲かるということだったから、勢い質より量が求められるようになったようである。また日本人の仲買人も、産地での仕入れ値の2.5〜5割増しで横浜で売れるものだから、生産者に前後の思慮もなく「もっと作れ、もっと作れ」とけしかけ、中には詐欺品まで現れるありさまで、こんな弊害が枚挙にいとまないほどになる。こうした粗製乱造の結果、イギリスの都ロンドンでは日本製の粗悪品がうずたかく積まれて廃棄されているといううわさが伝わってくるまでになった」
というのです。
なんとも無茶苦茶な展開によってせっかくの特産品が国際的な信用を失ってしまったわけで、その後、関係者が打開策を苦労して模索した様子が事項の「器械製糸の濫觴」で語られます。
「このようなことで信用はガタ落ちし評判は最悪になったので、頑張って優良品を出荷しても一緒くたに買いたたかれてしまう。文久の時代に入って心ある人々が信用をとり戻すため真面目に蚕糸づくりに努めたものだが、これまでがこれまでだから、信用回復はなかなかうまくいかなかったのである。
維新後の明治3年、前橋藩士の深沢雄象が藩主の命を受けてスイス人ミウラル、ミイルの2氏を招聘し、前橋向町にある商店を借り受けて、ここで洋式器械による生糸の製造を試みたところ好結果を得た。そこで藩はさらに大渡に洋式製糸所を設立して大いに製造を奨励した。これが上毛器械製糸の始まりである。
ところがこの年「廃藩置県」となったのでこの事業は群馬県庁に引き継がれたのだが、担当の役人が「こんなことをやってもこれまでの損が取り戻せるものか」ということで閉場ということにしてしまう。これを当時の豪商小野組が引き受けたのだが、小野組は明治新政府による政策のあおりを受けて明治7年に破綻し、製糸所は勝山宗三郎の所有となる」
こうして改良繭糸(機械製糸)の起点となった大渡の洋式製糸所は公的な支援の下に成長することはなかったのですが、一方では、この大渡製糸所の開設後まもなく、群馬県甘楽郡に名にし負う官立の「富岡製糸場」が開設されています。これに先駆けた大渡洋式製糸所と、それを後に所有した上毛繭糸改良会社の歴史というものは、編者の大いに誇りとするところであろうと思われます。こういうことをちゃんと記録しておくためにこの社史が編纂されたのではないかとも思えるのです。(この項続く)