人間は皆、哲学する。
言葉を持ったから、人は言葉で思考するようになった。文字が生まれてすぐ、宗教も生まれている。以来、人は皆、哲学してきている。
農民も職人も商人も、会社員も役人も、プロスポーツマンも芸人も、芸術家も科学者も、無職やニートの人も、「反社」とされてしまった人たちだって、それぞれに人間は哲学する動物なのである。
皆、その哲学によって生きるのだ。
そして、実は、神を思っているのである。
神とは、カミ(上)なのである。上が下を在らしめるという思考である。
水が上から下に流れるのがその代表で、ニュートンより何千年か前に起こった「万有引力」の認識が人の思考の最初の大きな拠り所となったとみてよい。
以後の自然科学者や理論物理学者とて例外ではない。どこまでもカミを思えばこそのサイエンスなのである。アインシュタインは「神を思わぬ科学は不十分」と喝破している。
人は万有引力のところから先には行っていないし、行く必要も理由もない。
人間とは、そうした「現象」であってそれ以上でもなければ以下でもない。その中で生きる意味も生みだされているのが真実というものだ。
人間としての意識、認識しか人間にはない。それ以上はない。喜怒哀楽、利己的利他的衝動、肉体的精神的または論理的努力、希望、絶望、野心、反省、達成感、無力感、幸不幸、何やらかんやらすべて人間としての認識である。それしかない。人間だから。
であるから、
人間として「生ききる」ことが人間としての一つの充足の道だ。
死んだら、すべてがひっくり返ると思えばよい。死とはそんなものである。
自分というものを本当に愛するならば、「生ききる」ことだけ考えて自分の思考を集中させ、磨き続け、行動し続けるのみであろう。
われわれは「社史」を作っている。その目的は、根源的に、そういうことの「解き明かし」である。
2025.02.03 社長