大渡の製糸場は県庁から冷淡な処遇を受けたのですが、国としては富岡製糸場を開設して繭糸産業に力を入れる方針を示したわけで、こうなると意欲のある人たちはこの仕事に希望を託し、大渡の機械を改良して新工場を建てる動きなども出てきました。
こうした機運の中で思い切った手段に出たのが星野長太郎という人です。
星野長太郎は当時の南勢多郡水沼村に様式機械を備えた工場を開いて積極的に技術改良に取り組んでいましたが、ある時、佐藤百太郎という人がアメリカで雑貨店を開くという話を聞いて、実弟の新井領一郎に自社工場で作った繭糸を持たせて同行させたのです。
そして佐藤百太郎の開いた店で販売したところ、「絲質精良、繊度均一にして頗る好評を得」(「壹英斤に付米金六弗五十仙」——1ポンド6ドル50セント)て、当地の繊維製品製造業者から続々と注文が入るようになったのです。当時の農商務省の調査によれば、横浜での売買では36〜7匁で1円だったのが、アメリカでは25〜6匁で1円で売れたそうですから、4割増し以上の計算になります。
この成果を得て、長太郎は同業の人々に様式機械の導入と直輸出による販売を勧めるようになり、これに呼応する同志も増えていくようになります。
その中で、さらに積極的なプランを立てたのが宮崎有敬という人です。当時、洋式機械を導入するといっても、実態は昔ながらの手仕事の座繰り機に洋式装置を付けたものが大半でした。宮崎は「これでかなり作業が簡便になったといっても、遠い将来を思えばほんの一歩の進歩にすぎない。これで満足していては先になってまた失敗することになるだろう。さらに完全な改良のために、水利の良い所に優秀な機械を設備した共同製糸所を建設して、高品質に一定したものを作っていかなければならない」と主張して、その経費と利益を試算した提案書を群馬県庁に提出することになります。
折しも、最大の士族の反乱であった西南戦争も終結して明治新政府の体制も固まりつつあり、殖産興業策が本格化していく中でしたから、製糸業の改良にも積極策が採られることとなり、上毛地方では桐華組(前橋町)、敷島組(南勢多郡一毛村)、沼田組(利根郡沼田町)、亘瀬組(南勢多郡水沼村)、黒川組(南勢多郡荻原村)、山田組(山田郡大間々村)の6団体が合併して、前橋町に「精絲原社」という新会社が設立されたのでした。(この項続く)