自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

エッセイ倶楽部

牧歌舎随々録(牧歌舎主人の古い日記より)

009. コンピューターと人間

 いくらコンピューター万能の時代になったとて、人が夜の眠りの中で、コンピューターの夢を見るようになるわけではない。
 知能をもち、感情すらそなえたロボットが出来るかもしれない。しかしそれが究極の完成を果たしたところで、それはわれわれがすでにそうである「人間」にすぎない。
 すぐれた能力を付与されたロボットたちに人間が支配される時代がくるかもしれない。そうなれば戦うのみである。そのロボットを操る人間たちと――。

【追記20181207社史の制作をしながら考えた】「理性と感情」
 理性的な人間が増えている。それは一種の人間の進化ともいえる。「進化」の意味は良い悪いとはとりあえず無関係である。「適者生存」の進化論的な意味においての進化である。理性的な人間が増えている。それは一種の人間の進化ともいえる。「進化」の意味は良い悪いとはとりあえず無関係である。「適者生存」の進化論的な意味においての進化である。
 理性的でなければ生存が困難な状況になっているということである。素朴では生きられない世の中になってきているのだ。
 仕事で社史を作っていて、ふとそう思った。社史の中に出てくる人間は、会社とともにそのような変化をしているのではないかと。
 世の中は知的競争化が進んでいる。みんなが大学に行き、みんながコンピューターを使い。増え続けるネット情報にアクセスできるのが一般人のレベルになる。それ以上でなければ競争社会で抜きん出ることはできない。  医師であるための知識の量は、戦後の時代からおよそ800倍にもなっているといわれる。どんな職業でも、おそらくその仕事のために必要な知識や情報の量は増え続けているのだろう。
 だが、理性の必要性が感情の抑制に働き続けることは、良いことなのだろうか。つまり、良い悪いの観点から理性的ということを批判できるのではないか。感情的ということに人間的という意味を復権させる必要があるのではないかと思う。
 コンピューターが発達すれば人間はコンピューターに支配されるようになるかもしれないとはよく言われたことである。
 しかし、問題はそこではなかった。コンピューターに支配される前に、人間自身がコンピューター化していくのだ。「適者生存」の進化論が正しいとするならば。