中三生が大事件を起こした。
残虐なことを好むのは、おそらくは「怒り」に基づくものと考える。どんな動物も、無用の殺生はしない。ましてや、残虐性そのものを楽しむということは、本来無意味であり無益なことであって、それゆえ通常の場合にはありえないのである。
それがあり得るとしたら、その原因は生得のものではあり得ない。それは何かの代償として成立するしかない。その何かとは、「怒り」であろう。
学校への怒り、教師への怒り、受験教育への怒りなど、さまざまなものがその異常行動の動機とされているのだが、そのような一般的なものだけが動機であるとしたら、こんな事件はもっと頻繁に起こるはずだ。一般論に還元できない、彼だけの怒りを考えなければ、彼を理解することはできない。それはおそらく、彼自身にも把握できない内容のものかもしれない。残虐行為によるカタルシスのみに興味が注がれる状態になると、当人はおそらくその基因である「怒り」には、もはや関心もなくなっているかもしれないのである。
「怒り」について考えるべきであるとともに、彼の行動の「卑劣さ」にも注目すべきである。何に対する「怒り」であるにせよ、その怒りをそれをもたらした対象に向けてぶつけるなら、それはその限りにおいて健全である。それをせず、弱者を自らのカタルシスの犠牲にして恥じない心性というものは卑劣である。敵に立ち向かうことをせずして、第三者である弱者の虐待に専念する卑劣な精神は、ことに近年の若者に珍しくなく見られる。
怒りが、なぜ向けられるべき相手に向けられず、無関係な弱者に向けられるのか。その怒りが本物ではないのか。本物の怒りならば敵以外に向けられることはないだろうと一応は思えるのだが、まさしく本物の怒りなのに、あるべき表現が行われないというゆがみこそ、病理の深さを示すのだとも考えられる。
嗜虐性というものの意味するところは、深遠である。日常の仕事に追われる者が、山の爽快感のとりこになって登山に病みつきになるように、彼は残虐行為に病みつきになったのかもしれない。そこには性の衝動という生々しいものとか、常人にできないことができるという錯覚のヒロイズムも参加していたかもしれない。
性衝動の異常な形での現れ、とする見解も確かに説得力がある。彼は、わくわくする気持ちで被害者の少年を犯行現場につれて行き、性衝動の興奮をもって絞殺したのかもしれない。考えられないことではない。
けれども、よくよく因果関係を考えてみれば、性衝動が先にあって、それが残虐行為の常習として現れるということがあり得るだろうか。逆に、残虐行為によるカタルシスの習癖が先にあったればこそ、それが性衝動の解放に応用されたと考える方が自然ではないか。そして、その習癖を成立せしめたものは、やはり彼独自の「怒り」ではなかったかと思うのである。