最も単純な言葉で敢えて漱石を評すれば、その文学の底に横たわる不変のテーマは「誠実」ということではあるまいかと思う。
漱石の文学は、ある人には現実を離れた人格主義であり、ブルジョア的テーマに終始しているように思われるかもしれない。しかしながら、人間が社会に生きる以上、「誠実」への志向は、さまざまなイデオロギー以前の前提である。
この頃では、社会はそういう関係的努力でなく、互いに利己的に利用し合うことにより成立するものであるという、いわば物質主義的な社会観が幅を利かせているように見えるが、人間の救済や解放のために、それが最終的な解答になるとはとうてい思えない。
誠実とは、他者への態度とのみ思われがちだが、決してそうでない。自分を偽って他者に対することが誠実でない以上、自らへの誠実さも同等の重さをもつテーマなのだ。そしてそこには当然乖離が生ずる。乖離が生ずるがゆえにこそ、また誠実ということが問題になる。社会と個人の乖離を、どのようなアプローチでもって克服していくかが、いわば文学の永遠の使命である。
乖離を表現する文学はいくらもある。けれども乖離の中で喘ぐ文学は現代では流行らない。漱石文学の懐かしさと正しさが魅力を保ち続けている所以はその辺りにあるのだと思う。