自衛隊というものは、侵略行為に対して抵抗し一定の冷却期間と侵略国の無道を国際社会に訴える時間を確保するための手段としてのみ認められてきているのである。
【追記20190302】
自衛隊が合憲か違憲かということは安倍政権下で安保法制が布かれてから以前に増して喧しい論点となっている。
この問題に対する基本的な考え方は、「いずれは核戦争が起きて世界が壊滅する可能性が極めて高く、人間はそれを少しでも先に延ばす工夫と努力をするしかない」ということである。
そのために、自衛隊を合憲とするのがよいか違憲とするのがよいかと考えるべきなのである。
そう考えると、「違憲」としておくべきだという結論になる。なぜなら、「合憲」とすることでは緊張は高まりこそすれ弱まることはないが、「違憲」としておけば少なくとも憲法との関係においては国際間安全保障環境の緊張を高めることにはならないからである。われわれは「壊滅」が遠のくように遠のくようにと努めるべきであるのだ。憲法改定は、行うなら緊張緩和の方向でのみ行うべきであって、その逆となるような改定は決して行ってはならない。われわれは、人間がいかにたやすく戦争を起こすか、起こしてきたか、そして新たなテクノロジーがいかに間違いなく戦争に勝つために用いられてきたかを歴史から学ばなければならない。そして常識的に判断しなければならない。
また、現在の自衛隊の実態を変えないとしても、その名称自体も「壊滅が遠のくように遠のくように」工夫ができるならしたほうがよい。「警察予備隊」→「保安隊」→「自衛隊」となったのだが、これは「戦争」を前提としていることがイメージされるようにされるようにと変わって(変えられて)きたものだ。これを元に戻すか、または「自衛訓練隊」あるいは国民の広範な希望を重視するなら「防災対応隊」とする。「防災」の語には「他国の侵略による災害をそれに必要な装備と人員で防ぐ」ことも含めればよいのだ。
さらに言えば、「壊滅の先延ばし」の上で、沖縄の問題も考えればよい。危険すぎる普天間基地を移転させるために、何も移転先を沖縄県内に限らなくてもよいはずだ。他の移転先についての可能先を日米政府間および沖縄以外の都道府県との間でよくよく研究、折衝して詰めていくべきだろう。当然、「壊滅の先延ばし」のために有効であれば普天間の返還のみで片付けることも検討されなければならない。
われわれが作っている「社史」は産業史のうえにあるとともに政治史の上にもあるのである。特に沖縄にある企業の社史を作るなら沖縄戦や基地問題を抜きにはできない。
「社史」を作っていくことは、同時に「壊滅の先延ばし」にも資する理念を追求していくことでもあるのだ。