実存主義の本を読んだがよく分からない。マルクス主義の本も分からない。どうしても自分なりに世界観の視座を決めなければならないと考えてたどり着いたのが「厳粛性」ということだ。
もし私が首を刎ねられることがあるとしようか。その出来事は取るに足らぬことだとする考え方もあってよい。しかし私はそれがあまりに無造作で無意味なものでありうるということが考えられない。私は死を、すなわち生を、何ものにとっても厳粛な現象であるとしか考えられない。大漁のサンマの中の一匹のように、いかに無造作に扱われようと命の厳粛さに変わりはないのだと思う。
これはさらに突き詰めれば、物質が物質であることの厳粛さ、エネルギーというものの厳粛さと捉えることができる。さらには物質が物質でないこと、エネルギー以外の何かも厳粛だとまでいえるだろう。
すべてが無意味だとしても、すべては厳粛でありうるのである。それは「儀式」の厳粛さでなく、むしろ「儀式」を否定する、世界の原理ともいえる厳粛さなのだ。どんな小さなものも、小さな時間も厳粛性に満ちているという感覚を身につけるとき、人間は「回復」を始めるのだと思う。
2001.09.07