自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

エッセイ倶楽部

牧歌舎随々録(牧歌舎主人の古い日記より)

033.

 円生と志ん生と、二つの型のどちらかに人間は分けられるのではないかと思う。円生は古典落語のイデアに近づこうとし、志ん生は古典落語を自分の個性の中に取り込もうとした。円生は落語に笑いと涙、すなわち人生を見いだそうとし、志ん生は笑いとたくましさ、すなわち解放を求めた。円生の芸風はどこか求道的であり、志ん生のそれはまさにエンターテインメントである。映画でいえば、円生は厳しいアクターであり、志ん生は華やかなスターである。人は好きなように生きてよい。しかし、その「好きなように」というのが意外に分からないものである。円生のように対象に近づこうとするか、志ん生のように対象を自分のものにしようとするか。その成果だけを見比べれば、わずかな差のように見えるかもしれないが、そこには決定的な思想の差がある。それは、一言にしていえば、優先すべきものを他者とするか自己とするかの違いである。前者、すなわち円生の芸はどこか窮屈であるが、ひたむきな美しさがある。後者、すなわち志ん生の芸はどこかいい加減だが、開放的な救いがある。円生はひとりよがりに陥りやすく、また「うまさ」を計算する嫌みがある。志ん生は横着に流れるきらいがあり、人を煙に巻いてあしらう悪徳博労のような抜け目なさがちらつく。円生の芸は客観性を重んじる良心が話への没頭を妨げている欠点があり、志ん生の場合は主観への没頭で押し通す迫力が時としてズルく思えたりする。自己の「知」に忠実であろうとする人はじつは真に良心的なのであるがいわゆる人間的魅力には乏しくなりがちであり、自己の「情」に忠実であろうとする人はじつは得手勝手な人間である場合が多いが、「魂の叫び」が人に感銘を与えたりするのである。じっさいのところ、社会を成立させ、縁の下の力持ちとして社会の実態を支えているのは知的な常識人であるが、そういう人にはあまり陽が当たらない。得手勝手な感情的な人間が、じつはうまくあるいは強引に世を渡るものである。けれども、「知」の人は、いかに知的であろうとしても、「情」が噴出することがある。すなわち「知」の人は「知」と「情」を併せ持つことが可能なのである。これに対して、「情」の人は「情」一本槍である。だからこそ「情」の人なのである。こういうふうに比べてくると、いかに知的嫌みの欠点が見えても、私としては円生に軍配を上げざるをえない。円生の落語は心屈した時にも聞ける。志ん生のそれは、客の心がすでに娯楽を求めているときにこそ真価を発揮する性質のものである。春団次も松鶴も、考えてみれば陽性の噺家はすでに陽気な客の心を爆発させることをもって身上とするのであって、人生の暗部を心に宿した者が聞くには不向きである。円生の落語は、暗部をも照らす真実味を追求するがゆえに、重層性がある。寄席の芸として、どちらがうけるかうけないか、その問題はまた別である。
 人は知的であることに努めるべきである。なぜならそれが良心というものだからだ。けれどもそれで事足りるのではない。この世は「知」だけで到底割り切れない矛盾したものである。「知」を尽くしても必ず「情」が噴出する。正しい者が負ける悲しみ、「悪」への怒り、「逃避」への憧れ、いろいろな「情」が現れるであろう。「知」を尽くして「情」に至る。そういう生き方が私は好きである。円生型、志ん生型ということから、こんなことを考えてみた。

1998.01.19