あらゆる生物は、個体は生きようとし、種としては増えようとする強い傾向をもっている。その結果、個と個、種と種のさまざまなレベルで対立が起こることになる。この対立の解決のされ方は2通りあって、一つは闘争によるもの、もう一つは共同によるものである。人間の世界においても当然しかりである。そして強者は闘争による解決を望み、弱者は共同による解決を望む。
カミュによれば、真実と自由を求めることが作家の務めだそうである。これはこの2つが人間の究極の目標だと考えていいだろう。
しかし、「真実」といい「自由」というものも、立場によってその意味が対立するところが問題である。強者は共同体のルールが自分を束縛すると思うだろうし、弱者は力による支配を不自由と感じるだろう。
すなわち、その人間が自分を強者(あるいはその予備軍)と規定するか弱者(あるいはその予備軍)と規定するかで「真実」の意味も異なり、「自由」の概念も対立することになるのである。
こうなってくると、「自由主義」ということばの意味も失われてしまう。それでもなおかつ、自由主義とは個々人が自分にとっての自由を追求すればよいのだということで推し進めていったらどうなるだろうか。100パーセント自我のためのみに生きている人間と、共同体倫理により自我を抑え集団としての調和を尊んでいる人間で、どちらが真に自由かと問えば、自由主義者と自由人が必ずしも同一でないことに思いが及ぶのである。