民主主義では多数決で最終的に物事が決せられるわけなのだが、個人としてはその決定事項にどうしても反対ということはありうることである。たとえば民主主義を否定するようなことが多数決で決まったりする可能性さえあるのであるから、どうしても賛成できないことが決定されれば、それには従わないという立場も、それゆえに直ちに民主主義の否定であるということにはならない。
民主主義といえば多数決ということになっているが、それは議決方式を指すのであって、民主主義の言葉本来の義は「君」でなく「民」が「主」だということである。多数決で決定されたことが必ずしも論理的に正しいとはいえないのだから、多数決のルールに違反することが論理的に正しい場合もあり得る。
戦時中にもしアンケートを取れば、中国人への蔑視や朝鮮人の差別に賛成するものが反対する者よりも多かったろう。民主主義を守ることが多数決に従うことばかりを意味するのなら、そうした非人道的な思想も肯定される。肯定されるどころか、それを実行することこそ正義の実践なのである。
国旗国歌法案が出されるらしい。これが可決された場合に従うことが民主主義だというなら、中国人蔑視や朝鮮人差別も民主主義だったということになる。逆にいえば、当時、多数の者がそう認めた「常識」に従うことについて、いわば民主主義的感覚で自己正当化できた状況だったわけである。人間は弱い者であって、多数派に属して安全でいたいという本能があり、それが非道なことである場合の良心の呵責も、「多数の意見」に民主的に従っているのだという口実でいくばくか、あるいは徹底的に解消されたりするのである。
多数決というのは、絶対者が居ないとき結局それしか議決の方法がないというだけのことであって、賛成できなければ従わないという態度もまた十分に「民主的」な態度であろうと考えられる。
1999.06.21