民主主義といえば多数決と相場が決まっており、この両者はセットになっているかのように思われているが、じっさいはそんなものではない。民主主義でない多数決もあれば、民主主義だけれども多数決でないことだってある。
なんでもかんでも多数決なら民主的で正しい選択が行えるというのは大間違いである。100人の内の90人が1+1=5だといっても間違いは間違いなのであるし、100人の内の90人が他の10人の財産を取り上げて山分けすることに賛成したからといって民主的とはいえない。
多くの人が望むようにする方が、少数の人が望むようにするよりも、望みどおりになる人の数が多いから、それで多数決という方法が正当なものとされていると思っている人がいるとしたら、大きな誤解である。
その昔においては、人間を優者と劣者に分けて見る人間観が普通だった。争いに勝った者は優者だから勝ったのであり、敗者は劣っていたから負けたのだとされた。この人間観は勝者を賢者とし、敗者を愚者と規定するものとなって、これこそ権力者支配が正当化された最大の根拠である。「王権神授説」はその露骨な例だ。
ところがここに、市民革命というものが起こった。上記のような人間観が一般的だったのに、なぜ革命が起こったかというと、優者も劣者も、賢者も愚者もない、ただ、権力の圧迫に被支配者が抵抗した行き着く先が革命だったというまでのことだ。
革命が起こってしまうと、それまでの人間観は何だったのかということになる。王は賢者で民は愚者と思っていたのに、愚者が賢者を倒してしまったのだろうか。しかしもともと、倒される方が愚者で倒した方を賢者とする根拠に立って王が賢者とされていたのだから、今度は倒した民の方が賢者で王が愚者だとしなければ筋が通らない。
しかし民こそ賢者だといっても、民は当然複数だから、いろんな意見をもつ民がいる場合には誰が賢者で誰が愚者だかわからない。じゃあ、いちばん数が多いのにしとこうかと、一足飛びに多数決にできたかというと、そうはいかない。
1998.03.04