一般に歴史といえば人間社会のものであるが、ネコでもイヌでも歴史を書けといわれれば書けないこともないだろう。よくテレビで横町のネコたちの生態を何年かにわたって追ったルポ番組があるが、そういうかたちで見ていけば、歴史は記述可能である。
人間には進歩があり他の動物たちにはそれがないという観点からすれば、人間とイヌネコの歴史は本質的にちがうともいえようが、それは人間の言い分であってイヌネコから見れば人間の歴史はただ複雑で変化が多いだけのものにすぎまい。また、彼らからすれば人間の歴史は人間が地球の支配者として成長していく歴史にほかならず、憎むべきものであろう。
要するに、当然のことだが、人間の歴史は人間にとってのみ意味のあるものである。では、イヌの歴史はイヌにとって、ネコの歴史はネコにとって意味があるであろうか。もちろん彼らは読み書きができず書き残された実際の歴史もないのだから、もし読み書きができたらの仮定の上での話であるが、これはやはり彼らにとって意味のあるものであるにちがいない。先人の経験を貴重な教訓となしうるのは、人間も動物も同じことだろうから。逆にいえば、人間のみが読み書きができイヌネコにそれができなかったからこそ、歴史的蓄積の有無により、前者が後者の支配者になったのである。
しかし、情報のそうした功利的意義を抜き取ったならば、その種としての生きざまを文学的興味で追うならば、彼らイヌネコにも人間とまったく同じ重さの歴史があるのは自明のこととなる。書かれた歴史は人間だけのものであっても、書かれない歴史は万物に同等の重さとしてある。それはこの世に生まれたものが生きようとして生き、また死んでいったドラマであり、生きとし生けるもの共通の歴史のはずである。
1999.06.10