自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

エッセイ倶楽部

牧歌舎随々録(牧歌舎主人の古い日記より)

052. 自由か平等か

 自由主義は勝者の論理か。
 およそ、人間社会を考えるときのキーワードは、「自由」か「平等」かということになるのである。自由と平等とは、第一義的には矛盾する概念である。雑食動物である人間をまったく自由に放置するなら、草食動物的に協同する者もいれば、肉食動物的に弱肉強食原理を選ぶ者もいるだろうが、ということは、結局、弱肉強食原理の社会を生み出すことになる。しかし「弱肉強食原理の社会」というのは言葉自体が矛盾であって、闘争が基本原理であるけれども、協同の要素を取り入れないわけにはいかないのである。つまり、水と油を混ぜたところに生きるのが人間であるといえよう。
 だから、たとえば、自由主義というのは、平等を否定する主義であると考えるのは間違いで、自由と平等をふたつながら確保しつつ、すれすれのところで自由を平等に優先させる思想であるというべきである。
 こう考えてくると、資本主義というのは社会主義否定の理論ではないことが分かる。現に、どんな資本主義体制であれ、社会政策を採らない国はないのであって、日本などはその最たるものとみる見方が有力である。
 そこで逆を考えてみよう。
 では、平等主義は自由を認容しうるのか。
 平等を「すれすれのところで」自由に優先させるということができるのか。それは、どういうことか。
 よくよく考えてみた結果は、これはなかなか難しいと思われる。なぜか。
 自由主義の中に平等の理念を取り入れるとは、「修整」であり、あるいは「妥協」の作業である。しかし平等主義の中に自由の理念を取り入れることは平等主義の放棄にしかならないのである。
 その事情は、次のようなことだ。
 競馬に、ハンデ戦というのがある。勝負の興味を増すために、強い馬には弱い馬よりも重い負担重量を課して競走させるのである。そうすると、弱い馬だって勝てるチャンスが生まれる。大穴も出やすい。しかし、競馬界が言うように、本当に「ゴール前で全馬横一線になることを想定して」ハンデをつけたらどうなるか。当然ながら、そんな馬鹿馬鹿しいレースに強い馬が出て来るわけがない。するとレースが成り立たなくなる。もしそんなレースばかりだったら、だれも強い馬を作ろうともしないし、馬のかわりに牛を出しても同じことだから、競馬という競技自体が無意味になって消滅する。
 だから、ハンデ戦とはいっても、レースが成り立っている以上は、着差が縮まりこそすれ、着順は実力を反映するように、基本的にはそうなっているのである。すなわち、ハンデの重量は、その程度以内に調整されていることになる。これが、平等の理念を取り入れた自由主義である。
 逆に、自由の理念を取り入れた平等主義の競馬があるとすれば、先に挙げた全馬横一線に最後はなる競馬であって、それは前記のように成り立たないものである。
 このように、自由主義は反対者を可能な範囲内で「許容」するが、平等主義は「許容」しない、またはできない。そういうことは考えておくべきことのような気がする。