自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

エッセイ倶楽部

牧歌舎随々録(牧歌舎主人の古い日記より)

124. 自由主義と自由競争主義

 経済の世界では自由競争主義を自由主義と呼びならわしているのであるが、自由競争と自由とはまったく異なる概念である。自由競争が自由をもたらさないことは誰でも日々実感しているであろうことである。

2000.01.09

【社史を制作するうえで考えるべき追記20190313】
 自由主義というのは、自由がいいということなので、どういう社会がいいかといえば、自由な人が多いのがいい社会ということになる。しかし自由競争主義でいけば少数の強い者が勝って自由を勝ち得、多数の弱者が敗者となって,不自由を強いられるのだ。だから自分が少数の勝利者のほうに入ろうとみんなが努めているのが自由主義だというのは土台が間違っている。多くの人に不自由を強いるなら不自由主義と言うべきだろう。
 アベノミクスの下で実質賃金は下がっているのに、就業者数が増え、総雇用者所得が増加したから経済政策が成功したと政権側は言っている。しかし増えた就業者というのは今まで働かなくてなんとか自由にやれていた65歳以上の高齢者、女性、学生たちだ。つまり失業率は下がったが、自由を失った人はふえたのである。このことは何を意味するか。
 最も多い高齢者のケースで見れば、年金だけでは暮らせないほどに医療費を始めとする物価が上がり、雇う側に都合の良いレベルの低賃金でも働かざるを得なくなったわけで、政策としては自由人の生活を苦しくさせて企業の金儲けに協力せざるを得ないように追い込んだわけである。
 自由競争主義なら、これでいいわけである。不景気なんだから、みんなが「努力」して、景気を支えようとしてい構図になる。企業も採算ラインでやっていけるようになったというわけである。
 しかしながら、実質GDPは伸びていない。それどころか下がっている。企業が労働者に支払う報酬の総額は増えたのに、だれももらった給料でそれまで以上の物を買っていないという結論である。それまで借金をしたり、貯金を取り崩したりして暮らしていた時と同じ生活、あるいはそれ以下の生活を今働きながらしているだけということだ。
 つまり、それまでなんとかかんとか自由を保っていた多くの人が不自由にさせられたというのがアベノミクスの実態である。要するに、労働の流動性だけは進めたが、その分、多くの人が不自由になったのだ。こういうのが「新自由主義」というわけだ。
 だいたい、食料自給率が極端に低いこの国で、円安政策で輸出企業は生産も技術力も上げなくても儲かるようにして、食料やその原料を高くしていたのでは内需が増えようはずはないし、円安による外国人旅行者の増加だとかカジノ解禁だとかが柱になるような「成長戦略」ではお粗末すぎるのだが、そのことはこれ以上論じなくてもいい。とにかく、国民の自由が大きく奪われたのが「新自由主義」だったということだけは言っておかねばならない。社史というものを制作していくうえで、政策がどのように会社の業績に影響したか、するかということの参考にしたい。