議論をしていて、自分の論理が破綻すると、相手の論理的であること自体を攻撃することに切り替えてくる輩がある。
(追記) 決定論の立場から言えば、森羅万象ことごとく論理のうえを転がっている。論理的でないものはない。論理的でない主張も論理の上に存在している。無謀な戦争を日本はしたが、あらゆる無謀性も論理的に現れたものだ。
起こったことは、避けられなかったことである。これから起こることも、避けられないことである。しかし、これから何が起こるかは永遠に未知である。未知であるが故に人は論理を知ろうとし、論理的であろうとする。論理が有効か、無謀が有効か。無謀が有効なのは論理が未熟だったからであり、それは論理が敗北し無謀が勝利した時にのみ言えることであるが、その事実はより無謬の論理を構築するために供される。無謀の正当性は決して強化されはしない。無謀はどこまでも無謀である。ただ論理の怠慢を証明するのみである。
論理的に予測する未来が好ましからざるものである場合、人は無謀な手段に出ることがある。窮鼠猫を噛むというのは無謀であるが万一の論理の欠陥に頼っての行為である。だからこれも実は論理的な行動なのである。
われわれはこうして、どのように絶望的な状況にあろうとも、論理に頼って行動するのである。われわれは論理からは逃れられない。そのことを考えれば、冷静さを取り戻せるはずである。
鑑真曰く、
「愁うることを須(もち)いざれ 宜しく方便を求めて 必ず本願遂ぐべし」
また、テルトゥリアヌス曰く、
「不合理ゆえに我信ず」
どちらも、人を根底から動かし得るのである。このことは考慮すべきことである。
1998.01.19