新しい道を示せないのに、現状に文句ばかり言うのは無責任だ。しかしそうなってくると、芸術というものはたいてい無責任だということになる。
(追記) ただ、表現者というものは、表現それ自体が喜びであるから表現するのである。ただそれだけなのである。ではなぜ表現が喜びなのか。それは、表現すべきものの存在を認識しながら、表現できないでいることが苦痛であり、そこからの解放を得るからである。
無論、表現できたからといって、客観的な苦痛の状態は変わらないことがある。恋の悲しみを余すところなく表現できても、悲しみは悲しみのままである。しかし、悲しみを表現できない苦痛からは解放されるのである。それは、恋の悲しみ自体から解放されることとは別の解放であって、むしろ、人間としてはより本質的な解放であるかもしれない。
ジャーナリズムの世界でも同様のことがあるようで、最近では「状況を批判するなら対案を示せ」などというジャーナリズム攻撃がかなりおおっぴらに行われるようになった。「対案を示さない批判は無責任だ」という説が当り前のようにまかり通り、批判を封じ込める。
だが、状況を批判できない苦痛というものは、状況を批判することで解放を得なければならないのだ。そこにジャーナリストの喜びがある。だから彼らは永遠に批判すべき状況を追い求め、こだわっていく。そこに彼らの「生」があるのだ。