自我、自意識あるいは「私」の観念とは何かといえば、それはその人間が生存し、種族維持し、かつ類として発展していくために不可欠な「道具」であるというのが正しいと思う。私は私を「私」という言葉で把握しているように思っているが、じつは私は「私」を超えた人類そのものの発現なのである。にもかかわらず私が私を人類そのものであると思わず「私」だと思うのは、この人類そのものとしての発現を確保するために「私」の観念が必要となるからである。
人類の本質とはじつは遺伝子であって、「私」はその発現であると同時に運び屋でもある。この運び屋は運び屋としてまず存在するためにも、運び屋としての自己目的を果たすためにも、遺伝子の存在環境を悪くせずより良くしていくためにも、道具としての自意識を備える必要があるのである。
しかしながら、この道具としての自意識が、それ自体が絶対的な価値であるかのように錯覚されると、それを磨きすぎた結果、自己を斬る刃になってしまう。
自由競争の社会では往々にしてそういうことが起こる。というよりも、人間の道具である自意識が人間そのものを傷つけるというのが、資本主義など自由競争主義思想の本質的矛盾なのである。
2000.01.09