人にとってある価値が絶対的であればあるほど、その反動としての弊害も多いものである。民族紛争、宗教戦争みな然りである。
1999.06.06
(追記)あらゆるものの価値が相対化されてゆく。それが合理的であり、科学的だからである。人が知的に生きる、その生き方は正しいとしても、合理の「理」が絶対化されなければならないかどうかという問題は設定されてよいかもしれない。
「かくあるべし」と言う場合、「べし」には2つの意味がある。ある思想や倫理観の正当性を主張する意味と、純然たる論理性を主張する意味とである。しかしながら、この2つは結局「真実」と「真理」の相互補完関係に集約される。思想や倫理観の正しさは科学的論理を踏まえずには成立しないし、科学的論理は思想や倫理観を形成せしめるものでなければ結局「無意味」にとどまるか、あるいは「有害」を惹起するからである。
こうした前提のもとに考えるなら、「人は何のために生きるか」への答はきわめてシンプルであって、それは「子孫を残すこと」のみである。どのような動物も、子の生存のためには自らの生命をかける。それは愛情でもあれば本能でもあって、どちらか一方と言う必要も無ければ言わない必要もない。それは「事実」である。あらゆる事実はあらゆる他の事実と連続している。それが「事実」である。