自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

エッセイ倶楽部

牧歌舎随々録(牧歌舎主人の古い日記より)

056.

 『大草原の小さな家』に、夕方、狩りに出た父親が獲物の野ウサギをぶらさげて帰って来るところがある。肉が食べられるというので幼いローラたちは大喜びで迎える。挿し絵もあって、感動的な場面である。大自然の中に、親子の情愛が豊かにあふれている。
 けれども、撃たれた野ウサギにしてみれば、あまりにもむごい悲運である。
 人間、生きていくためには狩りもするし漁もする。これは仕方のないことだ。だが、その野ウサギが、人間であったりすることもある。弱い人間たちを犠牲にして「情愛にあふれた」家族が存在している場合がある。そこには強者の非情がある。
 弱者もまた、非情であり得る。弱肉強食を告発し続けて生きている者は、そのような「情愛」を否定しているのであるから、一生「情愛」とは無縁に終わらなければならない場合が出てくる。何の「人間らしい幸福」も、そこに「排他の論理」があるかぎり拒否しつづけて、ただ道義を叫びつづける生き方を選ぶのである。弱者の「非情」とは、そういうものである。そうして、そのことによって、強者と対等に相対峙するのである。
 情愛というものは、例外なく排他性を伴うのである。その対象をこよなく愛するということは、対象に弱者から奪ったものを与える、あるいはそれを必要とする他者に与えずして、その愛する対象にのみ与えるのである。究極において、必ずそうである。それが愛である。
 それを拒否する彼は、はたしてそれに自ら耐えきれるであろうか。
 本多勝一。彼はその道を選んだ。彼を是認する者たちも、真に彼に共感するならば、同じ運命の人生を歩むことになる。
 非情ということ。「情愛」を捨てて人生を歩むこと。そういう者こそ、じつは本当に「情愛」の尊さを感じているのかもしれない。

1998.10.07