たとえば住宅の建設現場。大工さんの車が出入りするとき道路が少し渋滞する。大工さんの車に向かって「自分の金儲けのために人に迷惑かけるんじゃねえ!」と言う人もいるだろう。こういう感覚はむしろ今ではふつうかもしれない。仕事といえば金儲け、金儲けといえば仕事。しかし、昔はそうではなかった。金はむしろあとからついてくるもの。仕事といえば仕事自体であり、社会に必要な生産行為としてみられた。仕事は私的行為でなく、社会的行為だった。大工が家を建てるのは社会的使命を遂行しているのであった。むろん100パーセントそうなのではなく、個人的にみれば生計を立てるために仕事をしているのだが、だれもそんなことは言わなかった。はっきりいって、これはそんな昔のことではない。30年ぐらい前まではそういう感覚はかなり支配的だった。
もちろん、国家(お上)の権威もその反面強かった。やはり権力のピラミッドの中に国民がいた。そうしてみると、国において権力のピラミッドが確立していればいるほど、仕事は社会的行為と一般にみなされ、ピラミッドが弱まれば弱まるほど仕事は私的な金儲けの行為とみなされることになる。あるいは、私的な金儲けという感覚で人が仕事をするようになればなるほど、国家権力のピラミッドは意識されなくなるとも考えられる。
ピラミッドがあって、仕事の崇高さもあるのがいいか、ピラミッドがなくなって仕事の崇高さもなくなるのがいいか。よくわからない。仕事の崇高さがあって、ピラミッドがないのがいちばんいいことはわかっているが……。
1998.11.25