競争か共同か。資本主義を成り立たせるものは競争であり、競争を成り立たせるものは金持ちを貧乏人よりエライとする心貧しい思想なのである。しかし、その「競争」の内容は実際上「社会への貢献」の競争である。貢献度の高いものほど市場に受け入れられるところがミソなのである。
製薬会社が新薬の開発を行うのは、それによって金儲けをしようとの魂胆から行うのであって、人類を病気から解放したいとの理想主義から行っているわけでは決してない。徹頭徹尾利己主義が動機であり物質的利益を得ることが目的の全てであるのだが、結果的には人類救済に向けて邁進しているわけであって、この「下心ある社会貢献」こそ資本主義の原動力なのである。
自分が金持ちになって権力を得たいとの衝動にもとづく競争であるにもかかわらず、そのためには需要あるものをあまねく人類社会に行き渡らせることに貢献することが求められるので、結果としては貧富の差の解消に向けて力を尽くしていることになる。
そういうわけで、ずるいヤツが得をする資本主義も、経済機構という観点から見ればよく出来た仕掛けであると一応はいえるのだが、問題はこの「下心」が恥ずべき「下心」として自覚されている資本主義社会と、それが恥ずべきものでないと認識されている資本主義社会との違いである。
もし、利己主義の徹底こそが正しい生き方と全ての人間が認識し、あらゆる社会的活動が純然たる便宜以外の何物でもないという考えが世界的常識になってしまったとすると、自己の便宜に支障のない場面ではどこまでも利己主義を貫くべしとの結論になる。
よく、人間ウラオモテがあってはいけないなどというが、上記のような世界ではウラオモテがあるのが当然であり、むしろ「ウラオモテがなければならない」という常識になる。
もともと、人間という動物の社会性は生活上の便宜にもとづいたものだったのだから、こうした割り切った世界こそ理想に近づいたものだという意見もあろう。
しかしながら、こうした世界では倫理も法も人間関係も全て便宜なのであるから、これらの便宜によって得られていた利己的なメリットが他の手段で得られるならば、倫理も法も無視してよい、いやむしろ無視しなければならないということになる。例えば、本来なら報酬を支払ってあがなうべき他人の労働力も、暴力をもって獲得できるならそうすべしということになる。このような世界にはもはや「非道」という言葉すら存在しないか、あるいは時によってはそれが肯定されるのであるから、平和の維持のためには大なる危険性がある。「平和」にすら便宜的な意味しかないのであり、平和は便宜のためにしか守られず、平和でなくとも困らない強者、現状における平和の形態では不利をこうむっている弱者、どちらの側も戦争を起こすべしの世の中では、結局はいつまでたっても戦争は絶えないことになる。
すでにそうした世の中になっていると思われるフシもある。現在が歴史の大きな転換点といわれる最も本質的な意味は、そういうところにあるのではあるまいか。
1999.06.16