近代日本を引っ張ってきたのは国益という言葉である。そこには2つの意味合いがあって、一つはいわば国家主義。日本という国こそ尊いのであって国民はすなわち民草、国の従属物とみなすもの。もう一つは逆で、国を国民の従属物とみなす進歩思想だが、国益なくして民利なしの観点から国益を優先させようとする意味合いである。
いうまでもなく、今日国益という言葉がとりあえず意味があるのは後者の場合に限られるが、国益と民利の主従関係がいまだにあいまいなままであるのは驚くべきことである。今日国益といえば民利に従属する、民利のための国益にすぎないのである。じつは昔からそうだったのだが、その事実は国益優先主義すなわち国家主義を補強するための材料でしかなかった。そのことの誤りはすでに明らかであるにもかかわらず、いつまでも国粋主義者流に国益々々と錦の御旗でも掲げるように呼ばわる輩が絶えないのは日本人の精神的後進性を表している。
そもそも民利ということを離れて国益にどんな意味がありうるだろうか。国益とは、言い替えれば最も広範な意味合いにおけるところの民利に他ならぬ。民利維持向上の原理にかなうものこそ国益たりうるのであって、そのことがはっきり検討されぬままいきなり国益という言葉が頻繁に使われるのは理解に苦しむ。国益という言葉は犠牲を正当化する意味を多分にもつのであり、国を動かせる力の強い者であればあるほど、彼にとってこの言葉は便利なのである。強い者が使う言葉であるから、これによって犠牲になる者は当然強者でなく弱者である。
こんな言葉に惑わされているうちは、日本に民主主義など実現のしようもあるまい。
1999.06.11