自由競争の自由経済社会の欠点は、ゆっくり暮らせないということである。わずかな収入で、しかし仕事に縛られることなく好きな読書でもしながらゆっくりのんびりとした人生を歩みたいと考えても、社会がそれを許さない。たとえ少ない収入でも、それは必ず何かの競争の結果得ているのであって、競争をやめれば収入はゼロになるのである。つまり失職するということだ。
みんながのんびりやろうとすればできるのだが、決してそのような状況は訪れない。必ず「頑張り屋」がいて、他人に勝とうとするものだから、他人も負けてはいけないと頑張らざるをえなくなる。
では最小限の競争で暮らせるようにと願ってたとえば公務員になったとしても、出世競争から超然と離れておれるかというとそうはいかない。40になっても50になっても平吏員でおれるだろうか。後輩がどんどん追い抜いて行って自分に理不尽な命令をするようなことになってもゆとりをもって耐えられるだろうか。
世間から、家族から無能呼ばわりされる。子供も世間から軽んぜられる。自分ではこれでつましく暮らせる収入だと思っていても、家族は世間並みの欲望をもっているので結局常に収入不足の状況の中に身を置かされる。ゆっくりのんびりどころではない。
つまりは、結婚したり、子供をもったりという人間としての幸福は断念しなければならない。競争社会で競争を拒否して生きるということはそういうことである。
だから、完全に拒否まではできないのが現実である。しかし分け方としては、競争に前向きに生きるか後ろ向きに生きるか。積極的に生きるか消極的に生きるかということは幸福を考える場合の決定的なポイントであることはまちがいない。
つまり、競争からの自由を実現するという観点からすれば、競争に前向きであることは競争からの自由に対して後ろ向きなのであり、かつ消極的な生き方なのである。