東ティモールの独立は、この地域の住民が圧倒的な被支配の立場にあったことからすれば自然な選択ともいえるのだが、ここでさえ独立反対派がいたように、自由と独立をめぐる問題は一筋縄でいかないのが現実である。世の中には圧倒的な支配被支配というのはむしろ珍しく、その境目を限りなく不分明にしていくのが資本主義でもあって、だいたいは被支配階層は、楽な屈従か苦しい独立かという選択を迫られるのである。そして、苦しくとも独立を、と言えば美しくはあるのだが、それは独立しないことに比べて多大の犠牲を必要とする場合が多く、現実問題としては非常な難題である。
自由の問題も同じで、不自由の方が楽で自由の方が苦しいというのが現実であったりする。いやむしろ、資本主義は必ずそのように変容するのである。枠組み自体が支配被支配の力の論理で成立しているとき、自由を得るためには他の全てを失うことが求められたりするわけである。それはわが子やわが親を薬代がないためみすみす病死させてしまったりすることをも当然含むのであって、見かけ上はわざわざ不幸を招いているようにさえ見えるであろう。自由さえ捨てれば免れられる不幸を、自分のみならず愛する者たちにも味わわせることになるのが、今の世で自由を求めるということの意味である。もともと自由とは幸福を求める自由でもあるのだから、不幸を招くということは自由の放棄、すなわち自己矛盾にすら見えることだろう。
1999.09.05