人間の知恵で把握することは到底不可能であろうが、宇宙には宇宙の成立のための最終原理があるはずである。神というものを想定しない限り、それは人間が言うところの物理学の土台である「偶然」の成立原理の体系のようなものだろうが、それが宇宙の最終的深淵であるといわざるをえない。そこに到達することは到底できないけれども、人間もまた他の森羅万象と同じくそこから来ており、しかもそこから離れたのではなく、そことの関わりにおいてのみ存在しうるわけなのである。言い換えれば、われわれは、他の万物と同じく、実は原理そのものなのであって、この点においては不可変であるがゆえに、人生や、社会や世界を、無秩序であり、どうにでも変わりうる頼りがいのないものとみなすことは誤りということになる。われわれはただ恣意的に生きたり、社会を変革したりするものと考えるべきではない。われわれには知りえないけれども、最終的な原理にかなったある「正しさ」があってわれわれが存在するのであるから、常にそのことを意識したうえで、真摯な手探りというものを行っていくべきである。最終的な原理はついに人の英知に捉えられないけれども、原理の存在を意識して真摯であるということは、われわれが決定的誤謬から逃れるための唯一の方法である。むろん局面局面においてわれわれは数々の誤謬を犯すのだけれども、「絶望」という決定的誤謬からは無縁であらねばならぬ。逆に言えば、われわれがたまたま誤謬を犯さず、局面において正しい認識をするとしても、その正しさは未だ不全であり、われわれの真摯さが加わってこそ、その正しさが意味をもちうるわけである。感情的なものであれ理性的なものであれ、真摯さが絶対的な物差しであって、コンピュータがはじき出す「正しさ」はその一つ一つの目盛りにすぎないのである。
1998.02.19