自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

エッセイ倶楽部

牧歌舎随々録(牧歌舎主人の古い日記より)

159. 『偶成』論


少年易老學難成
一寸光陰不可輕
未覺池塘春草夢
階前梧葉已秋聲

 ふとこの有名な詩を思い出した。
 人を、特に男性を良い意味で評するのに「少年のような心を持った人」というような言い方がなされることからの連想である。

 古稀という歳を迎えて痛感するのは、比喩や修辞でなく、現実に年を取ると時間の経ち方が速くなるということである。これは若い時には想像していなかったことである。むしろ、若い時のほうが忙しく時が経過し、年を取ればのんびり、ゆっくりと日を過ごせるようになるのだろうぐらいに考えていた。全く逆である。

 老化ということは、思考の速度が遅くなるということだろうか。
 体が老化して肉体的行動が速くできなくなると、思考もそれに添うのだろうか。あるいは思考のスピードが遅くなることによって肉体的行動が遅くなるのだろうか。科学的に、生理学的に考えてみても面白い問題だろうと思う。考えてみれば、結局、思考というものも肉体的行動以外の何物でもないのだ。肉体と精神を分けて考えること自体が、当然、誤りなのだ。

 こんなことに気づくのは、私がこの年になってますます社史制作などの仕事で忙しく働かなければならないという、通常の人と異なる境遇にあるからで、引退とか隠居とか年金暮らしとかいう一般の老人であればこんなことには気づかずにいるのだろうか。

 おそらく、長寿化がさらに進み、歳をとっても働くことがさらに常態化していけば、この現象が世の中で取沙汰されていくことになるであろうと考えられる。

 「偶成」の詩は弱年者へのメッセージであったのだろうが、以上の私の考えからすれば、「一寸光陰不可軽」はむしろ老人への実践的警告である。急がずのんびりしていればいいというのは若者の特権であるということになる。老人は、ちょっとまどろむだけで一日が過ぎてしまうが、少年は一日あればその何十倍もの経験をすることができるのだ。

 少年よ、決して急ぐことはない。与えられた人生の時間を、ゆっくりと豊かに味わいながら進みたまえ。

2019.1.23