私は哲学も経済学も物理学も歴史学も専門的に勉強した者ではない。むしろ浅学菲才であって、それらの基本的術語さえもわきまえない、いわば世間によくあるであろう「無知なる思考者」である。
そのうち勉強しよう々々と思っているうちに歳を取ってしまって、残された春秋も誠に心細いという事態に立ち至ってしまった。「馬齢を重ねた」と言うのも馬に申し訳ないほどの凡人なのだが、やはり一応歳を取ったこの辺で、何か、まとまったようなことを書いておきたいというようなことに変に色気づいてしまった。これすなわち、凡人の凡人たるゆえんであろう。だから書く。まあ、恥をかくのだ。
何かの本で読んだのだが、ある刑務所で刑務官が、翌日処刑される死刑囚の様子をひそかに見に行くと、死刑囚は獄室内を歩き回りながらしきりに独り言を言っている。よく聞くと「困った、々々」と繰り返し呟いていたのだそうである。
私は、その死刑囚が何を「困っ」ていたのかを考える。彼はおそらく、少なくとも現状は維持される(とりあえず、生きている)状態を前提として意識しているにもかかわらず、それが無くなるというので困っていたのだ。さらに言えば、それが徐々に失われるというなら仕方ないことと受け入れることも必ずしも不可能ではないが、明日いきなりシャットダウンだということがいかにも呑み込めない、納得できないということで「困っ」ていたのだろうと思うのである。
つひにゆく道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを
という古歌がある。古今集と伊勢物語に出てくる歌で、病者あるいは疲弊者が詠んだマジメな歌なのだそうだが、ユーモラスな歌だと言えば言えないこともないし、そのような意味合いで引用されることも多い歌である。どちらにしろ、死刑囚の「困った」の意味内容をよくうかがわせる歌なのだ。
そこまで行くと、「困っ」ても、もうほとんど手の打ちようがない。せいぜい辞世の歌を詠むくらいしかできない——こう考えてきて、ふと思った。
死を前にして、ふつうはこのように誰でも「困る」のだが、その「困る」に対処するに何かを「書く」ということを発想するというのは一体どういうことなのであるか。何か書けば生き延びられるという千夜一夜物語みたいな状況ではないのに、「書く」ということを発想する——これはいったい何なのか。
「発想する」というより、「発想させられてしまう」という、「せつなぐそ」をひり出す(尾籠表現、乞御容赦)のが「書く」ではないのか。
殺虫剤で死んでしまったゴキブリが卵鞘をお尻から出しているのを私たちはよく見ることがあるし、下世話に「疲れマラ」という言葉もあって、死を予感すると生物は生殖につながる行動を指向するもののようだ。
してみると、死を前にして「書く」というのも、生殖すなわち自己保存のメカニズムによる究極の生理現象、物理現象と理解できるのではないか、と思われる。
——こんなことから書き出そう。
2020.1.14