「原理」としての「親子」
戦前の日本は一君万民の天皇制国家であり、国民は天皇の赤子であって、その思想は建国以来一貫して国民に共有されてきた絶対的価値観だったように言われ、そういう説明をなんとなくみんな是認してきているのだが、案外これは誤解というか錯覚というか、早い話、間違いなのではないか。
そんな考えは、江戸幕府を倒した勢力が戦略として錦の御旗を掲げて以来の中央集権化政策の中で、百年にも満たない、いわば一人の人間の一生涯分の時間をもって政策的に蔓延させられた思想であったにすぎないのではないかと、ふと思った。
今の建国記念日、昔の天長節は明治時代に作られたが、江戸時代までそんな国民的行事は無かったのであるし、それに類するものがあったとすれば、それは神棚とかお賽銭とか神社とかいう緩やかな日本神道とその元祖家へのゆるやかな崇敬の共有であったろう。
「悪いことをすればバチがあたる」「善いことをしていれば温かく見守ってくれる」親としての神、その系統というものをなんとなく自明の存在として意識の中に持っているという宗教事象、これは人間の本能に由来するものと私は思う。
前にも考えたことだが、「人は何のために生きるか」といえば、その答えは「子孫存続のため」なのである。結局はそこに帰結するのである。人に限らず生命体は例外なくそういう「現象」なのである。これを原理的基礎現象として、その他の個別現象、応用現象が惹起しているというのがこの地球上の生命世界でありその歴史でもあるのである。
個別の人間に引き付けて自覚的にこれを理解するとすれば、「子が親を思う心」「子が親を思う心」があらゆる行為の根元にあるのである。
どのようなエゴイスティックな犯罪も、自己を保存し、自己の子孫を保存しなければという予め決定された「傾向」が起こす現象である。それは必ず「子が親を思う心」「親が子を思う心」とつながらずにはいない「傾向」である。どのような犯罪もすべてそうなのである。どのような「善行」もそうであるのと同じなのである。
人間とはそういうものなのである。
戦前の日本も日本人も、戦後の日本も日本人も、みんなが変わった変わったというほど変わってはいない。変わったのは表面だけである。もちろん表面は現実面だから無視はできないが、しかしどこまでも表面にすぎないことを、忘れてしまってはいけないのである。政治とは、表面が「子が親を思う心」「親が子を思う心」という人間の原理的基礎現象を反映させられるように調整する営為に他ならないのである。これは単に表面的利害の調整ということではない。表面的利害の調整に当たって、前提に置くべき原理ということである。
2021.3.9