自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

エッセイ倶楽部

牧歌舎随々録(牧歌舎主人の古い日記より)

163..概念


 小学校からの帰り道、小ぶりな犬を連れて散歩する老人と時々出会った。

 私たち少年がその犬の頭を撫でながら「面白い顔の犬だなあ」と言っていると、その老人は必ず、「これは犬ではないんだ。狆(ちん)という動物だ」と言うのであった。

 私は半信半疑、というより、「おじいさんの言っていることは間違っている。これは狆という種類の犬なのだ」と、ほぼ確信的に思っていた。だが、「犬ではなく、狆だ」という言い方(おそらくはそれを意外な事実として伝えられることに何らかの満足を感じているらしい言い方)に面白みを感じたので、今も記憶に残っている。

 そこには、いまだに解けぬ謎がある。

 犬は、種類が多いだけでなく、見かけにおいて千差万別である。チワワのように小さいものからなんとかいう仔牛ほどもあるでかいものまでさまざまであり、毛は色も長さも極端に異なり、体型も非常に多種にわたる。コリーもいれば柴犬もおり、ダックスフンドもいればシベリアンハスキーもいる、というわけだ。

 にもかかわらず、われわれはどれも「犬」だと自然に認識している。

 これはどういうことなのか。

 当然ながら、何かの明らかな共通点を見出しているので、何十種類もの犬が集まってもそれをすべて「犬」と識別できるのであり、しかもそれは科学的に真である識別なのだ。

 だが、われわれが見出している共通点とは、いったい何なのか。

 もちろん犬には動作などに特有と言っていい共通点があることはある。だが、姿かたちの相違はそれをはるかに上回るではないか。

 ふつう、これだけ姿かたちが異なれば、別種の生き物と考えるのが当たり前だろうに、われわれは自然に、見事なまでに同じ「犬」と識別している。

 また、姿かたちで言えば標準的な「犬」に近いであろうキツネについては、はっきりと別種と見分けている。このわれわれ人間の能力は、どうやって身に備わったものなのだろうか。

 狆を連れた老人と会った時から今日まで、この謎は解けていない。
 最後まで解けない「自明の理」なのであろう。

2019.2.7