「新しい天皇」論
太平洋戦争終結までは昭和天皇は現人神であり、現上皇は現人神の子であった。現天皇は日本史上初めての、「現人神あるいはその子であったことがない」天皇である。
もちろん「天皇家」というものは続いており、以前「現人神」と呼ばれた日本の君主としての歴史を持つ家系であるが、現在の憲法上では「『主権を持たない』ということが他の国民と異なる特殊な日本国民」であって、神性や君主性は失って完全に相対化された存在となっている。
戦後の「人間宣言」はあっても、昭和天皇も現上皇も「現人神あるいはその子」として生きた歴史をその身に持つのであるが、現天皇はその「歴史」をその身に持っていないことを特質とする「天皇」なのである。
つまりは生粋の「人間天皇」として、新たな歴史を踏み出した。そのことにより、日本という国も新たな歴史を踏み出したわけである。その「新しい天皇制」とは何か。それを決めるのは国民である。「全く神でなく、神であったこともない天皇」が成立しうるのか、それはどのようにして可能なのか、興味深いことではある。
「衝動論」
人を動かすものは「衝動」である。その「衝動」はDNAが状況に呼応してもたらす物理現象であるが、そこに「類的」なものが備わっているかどうかが「人間性」を考えるときのポイントとなる。
まずは、「自己保存の衝動」は明らかに認められる。いわゆる性衝動をはじめ、子を守り育てようとする本能的衝動は人間以外の動物をみても明らかなように普遍的なものである。問題はその先の、「自己保存のための環境確保」も「自己保存の衝動」と表裏不可分の関係にあるものであるか否かということであり、その不可分性が証明されれば、人は「類的衝動」によって存在していることが証明されるがゆえに、「強者生存論」に対抗しうる理論となる。それでもなおかつ「強者生存」こそ真の「類的衝動」であるとする立場は残るであろうが、それはおそらく「永久競争論」に陥り、最終的に自己破滅を招くものとして論証することが可能になるであろう。
2020.8.24