自費出版-社史・記念誌、個人出版の牧歌舎

エッセイ倶楽部

牧歌舎随々録(牧歌舎主人の古い日記より)

164.ウソの研究


 社史を作りながら、最近、「ウソ」というものが気になり、考えることが多い。

 『ゆきゆきて、神軍』という映画がある。

 昭和20年8月15日の終戦を知っていたにもかかわらず、その数日後ニューギニア戦線の残留部隊で、軍規違反を理由として、ある兵の処刑を部下に命令して実行させた隊長がいた。戦後の昭和30年代になってそのことを知った、同部隊所属の兵だった奥崎健三は、関係者を訪ね歩いてその事件の真相究明を試みる。そしてついに元隊長に会い追及するが、元隊長は「上からの命令があったので部下に処刑を命じたまで。自分は処刑には立ち会っていない。自分は他の事でもいろいろと多くの部下から憎まれていた上官だったのかもしれないが、すべては部下たちを日本に無事に帰すためということを最大の自分の使命と思い定めて努めていた。他人から何を言われてもいい。自分は処刑現場にいなかったから遺体も見ていないが、自分が部下に命じて行わせたことだから自分が殺したと言われるなら甘んじて認める」との説明。覚悟を据えた言明と見えた。

 だが、奥崎はさらに調査。そして元隊長は処刑現場にいて、数名の射手が同時に撃ったが、あえて照準を外した射手などもいて即死に至らなかった兵を自らの銃でとどめを刺した事実を確認する。奥崎は元隊長を再訪し、面会を拒んだその長男を改造銃で負傷させて逮捕され投獄された。すべて実在人物が登場するドキュメンタリー映画である。

 元隊長の「自分は処刑現場にいなかった」との説明はウソだったわけだ。だが観る者に「そうかもしれない」と思わせるのはそのほかの一見潔い付言の部分である。つまり「自分が手を下したも同じ」そして「自分としては隊員を無事に戻すことを最大の使命としていた」との説明である。

 肝心な部分ではウソをついており、きれいごとのような説明はごまかしのためのでたらめであるということになるのだろうが、この辺に考慮すべき点が詰まっていると思える。

 「肝心な部分でウソをつく」というのは、ある意味一般的な人間の習性とも思われ、「言葉と人間のかかわりを考える上で参考になる。しかし「きれいごとの説明」というのも同様に人間を考える上で参考にしなければならないことのようだ。これはある意味真実かもしれず、あるいはいわば自分の真実の良心を「利用」した「自他に対する」ウソかもしれない。

 人間、子供のころにつくウソは単純に自分の悪事がバレるのを防ぐためにつくウソだ。そしていろいろな人間関係の中で成長していくにつれ、つくウソも成長していく。自分に対してつくウソも身につけてしまうのだ。
 社史という、歴史書を作る者として、真実の歴史を追求するなら、こういうこともわきまえておかなければなるまい。

2019.3.1