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牧歌舎随々録(牧歌舎主人の古い日記より)

173.社史・記念誌の制作・編纂をしながらのオピニオン5


世の中金で動いていることの認識
 政治家も教育者も宗教家も評論家も経営者もサラリーマンもみんな金で動いている。結局のところそういうことなんだと人間を冷たく見ることが必要だ。もちろん動物も生物も、金ではないが生存と、その延長である子孫保存のための糧を求めて動くのだ。動物の動き方はシンプルだが、人間は非常に複雑である。言葉だとか理屈だとかがあるものだから時々は単なる利害関係を修飾したり変形したり偽装したりして戦いながら、そうやって得ようとしている必要なものはただ金なのである。

 もちろん、芸術的情熱も正義感も哲学をはじめとするあらゆる学問的追求も、だからもちろん純粋数学だって、そうした理知的営為もすべて、その求めるところは自己保存の糧や条件であって、その衝動は平たく言って社会人が社会生活の中で金を求めることと、その本質は変わらないのである。

 生きているものが、生きるのに必要なもの、それもあれやこれやの観念的なものでなく、突き詰めれば「物質」にほかならないものを求めているのである。「精神」的なものを求めているとみんなが思いたがっているが、すべて錯覚だ。きれいごとだ。

 それほどに他人をも自分をも冷たく見る、冷たい人間になりたいと72歳になって思う。そうなれば歳は取ってもこれからすごく頭が冴えるのではないかと期待する。発見だ。

 しかし、私が考えたくらいだから、如上のようなことは、いつの世も人類は、つらつら考えたものだろう。そうして、人間が、自分が、ただ自己のために物質のみを求めていることを知ったのち、その行動を全うするには実は他者が不可欠だということに思い当たって、この世の中になっているというこの歴史的運命的システムに気づいたりもしたことだろう。こりゃいったい何なんだろう、なんかいつも変だなと人類は思ったりもしてきたし、これからもするということで、歴史も社会もぐるぐる回りながらどこかに向かっているんだな。  

2021.2.24