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牧歌舎随々録(牧歌舎主人の古い日記より)

167.社史の制作・編纂をしながら考えた国会議員の発言


 北方領土視察団の一員であった国会議員が、現地における酒席で「戦争でもしなければ北方領土は取り戻せまい」というような発言をした。これがマスコミで報じられ問題になると、その議員の所属する政党の党首がその議員を除名処分にした。このことについて、日ごろ憲法9条改定論の同党がそのような行動に出るのはハシゴ外しだと投稿したところ、同党ではなく平和主義の立場で同議員の発言を批判する意味での反論のようなものがあった。それに対して私は次のような趣旨のことを述べた。

 私はあなたよりもペシミスティックであり、しかしおそらくあなたより平和を愛している。長い戦争の歴史をみれば、人類は科学技術的な発明を必ず戦争に用いており、しかも戦争は必ずすると考えなければならないほどの実績を持っているから、遅かれ早かれ核によって人類が滅亡することはほぼ確定していると考えるほうが考えないより妥当なのだ。そうしないために人類ができることといえば、ただその日を先延ばししていくことだけなのだ。そしてそれは漫然とした「平和の願い」だけでできるものでないことは、これも歴史があまりにも歴然と示す通りである。必要なのは戦争を起こしたい者たちへの「怒り」なのだ。。だから丸山の発言には反対するが、自国を侵略し平和を奪う者に対する「怒り」も認めない平和主義は信用しないのだ。いかにはるか昔のことであろうとも、私は原爆投下や大空襲という国際法無視や、相互の不可侵条約を一方的に破って攻め入り、領土を侵し、国民を連行抑留した所業には怒りを失いたくない。そうし「怒り」があってこその平和要求でなければ、利益を得るために戦争をしたい、あるいはさせたい勢力にこれまでのようにずるずると押し込まれて、ついに人類の破局を迎えてしまう。そういう意味で、私は丸山の「怒り」を、その感情の限りにおいて是認するのだ。

 これを書いて、私は平和や民主主義を求めるためには、言葉だけでなく「怒り」が必要であることに初めて気が付いたのだった。社史制作・編纂の上でも、考え方に何か加わるものがあるかもしれない。

2019.5.26