(究極の社史・記念誌を考えながら)決定論の中でどう考え、生きるか
思考をも含む我々の精神活動も肉体的行動も、すべてが過去と同様未来においてもすでに確定された物理的プロセスであるとしても、われわれは何もそれらを徒労としてしまう必要はない。われわれは未来を知らず、また未来を良きものであってほしいと願うのであれば、こうすれば良き未来につながると考え、そのように行動することは自由である。そのように努力行動しないことも自由であるが、することも自由というわけである。結果は決まっているのであるが、それにしても自由は自由ということだ。
行動は、単なる肉体的反射であったり、感情に基づくものであったり、思考の結果の選択であったりするが、すべては自由なのである。
但しわれわれは、自覚的には、何らかの形で何らかを学習してきたわれわれであり。学習を未来に生かそうとする傾向を持つ者であり、そうしないことも自由であると同時にそうすることも自由である。
結局どうするかはすでに確定しているのだとしても、どうするかは自由なのだ。
繰り返すが、すべてが確定しているということはすべての行動の徒労を意味するのでもなければ、絶望や努力放棄や怠惰が許されるということを意味するわけでもない。
意味するのはむしろ、最も信頼性のある予測をもたらす学習に基づいて、それに忠実に努力すべきであるということであったりする。現象はすべて合理的なものであり、少なくとも合理的であろうとする物理的プロセスなのであるから、人間という現象も当然合理的であって、良き未来に向かうまいとすることは不合理と一応は考えられるからだ。
だから、自由とは、基本的には良き未来と思われる未来の獲得に向かうものであって、その逆や、停滞は、基本的には起こらない。
「未来」という現象も合理的なのであるから、「良き未来像」もまた合理的であってしかるべきであり、「賢人」という現象は、合理的な良き未来獲得のために合理的思考と行動に努めるのである。
現代人の思考と行動はそれなりに合理的に推移してきているのであるが、良き未来像と未来づくりにおいて合理的であるかというと、当の現代人自体が甚だ心もとないというのが実情ではあるまいか。
人類がどういう現象の道をたどるかは物理的に確定している。だがその結果は誰も知らず、しかもわれわれは自由なのだ。
「合理」ということは、その無限の厳しさを、人間という現象に要求している。企業もそれを心していかなければならない。
結果が決まっているとしても、その内容は分からないのだから、結果は考えず、自分で突き詰めた「合理」を貫くということだろう。「懐疑」も、そのためのものだ。
2021.10.10